亀崎幼稚園の思い出
「創立100周年記念誌」より
思 い 出
間瀬 良一
大正11年度卒 元教育委員
亀崎幼稚園が創立百周年をお迎えになるということで誠におめでとう存じます。何か思い出を書けとの事で、私の幼少の頃、青年時代の頃の拙い思い出を綴らせていただきます。
私には兄弟4名と子供3名がおりますが、全部亀崎幼稚園に御厄介になりました。亀崎幼稚園が創立が古いという事はそれほど意識してはおりませんでした。エプロンを掛けて、望洲楼の近くの紀伊国屋本店のところから、上町の商店街や、中町の細い道を通って和泉屋のある十字路で右に曲がり、川澄さんという小児科医院の前を通って左手に鶴城寺を眺め、亀崎鉄工所の大きな門の前を通って、左手にタンス屋、菓子屋、仏壇屋、宿屋を眺め、右手には岩井さんという内科の医院と鉄工所の赤茶けた削り屑や鉄棒等を眺め、相生座という芝居小屋の前で道路橋を渡り幼稚園に到着しました。園舎の外の遊びには立派な滑り台がありました。
今でも覚えている言葉があります。「チッチッパッパ、シャー」という言葉です。「チッチッパッパ、チッチッパッパ
雀の学校の先生が・・・」という童謡を歌いながら、小便がこらえ切れなくなって、「シャー」とおもらしをしてしまうという事なのです。私も一度や二度は実演して、先生方にご迷惑を掛けたかも知れません。
先日役員さんの御導きで今の幼稚園へはじめて、歩道橋を渡って園内に入り、一室へ御案内戴きました。実は私にとってこの付近の地は大変思い出の地なのです。
思い起こせば、私が半田中学五年生の秋、放課後の駆け足で、校門を出て左へ曲がり、岩滑に向けて走りました。すると右手に避病院がありました。私は鼻をつまんで息を止めて前を通り、岩滑を一周して学校へ帰りました。その晩発熱したのです。一週間40度の熱が続きチフスと診断され避病院へ送られたのです。祖父、母兄弟も大変だったろうと思います。丁度、今いる一室あたりがその病室のあったところなのです。幸いに病状は次第に快方に向かいましたが腰が立たなくなってしまいました。蘇生の喜びに何もかも忘れてしまいしまた。病室内で看護婦さんにアイスクリームを作って貰い、回復の進むにつれて楽しい病院生活でした。2ヶ月程で退院出来て、家で正月を迎える事ができました。三学期が始まり、はじめて登校して私は愕然としてしまいました。入学試験目前で騒然としておりました。私も必死の勉強を始めました。誠に無理を承知で名工大機械科を目ざし、将来の航空機、自動車の製造を夢を追いました。入学試験は無事通過しましたが、入学式の日には盲腸炎にかかっていて、氷嚢を右腹に当てての登校でありました。衣浦療病院で手術を受けて盲腸からは立ち直ることは出来ました。幼稚園の一室に案内された途端、この若き日の想い出が走馬燈のように頭の中を駆け抜けてゆきました。
名工大の同級生の会で私が幼稚園の話をしました時、「間瀬は幼稚園を出ているのか」と大変に珍しがられた想い出があります。幼稚園を出ている人は私の他ありませんでした。
三人の子供達も幼稚園を卒園し、亀崎の地を巣立って参りました。孫も既に幼稚園の時期を終わり、それぞれの人生の道を歩み始めています。
亀崎の地で育つ子供達の、良き想い出となる幼稚園が古い伝統と新しい発想とを育んで益々発展して行かれることを心から祈念申し上げます。

亀崎幼稚園への便り
100周年記念式典年記念式典を終わって、修了生から手紙をいただくことがあります。
とてもなつかしく、楽しい思い出のいっぱいつまった手紙です。
ほのぼのとして、心温まる文面の一端をここに紹介します。
「大正十年四月〜十二年三月迄お世話になりました。」とありますから、八十五歳方でしょうか。文章もしっかりとして、達筆で、何よりその記憶力は大変なものです。
途中所々省略しますが、ここに一部掲載します。
『創立百周年おめでとうございます。
皆様のご尽力で立派な記念事業を行っていただき心から感謝しております。
ー中略ー
記念誌を式典の翌日、たった一人生き残りの私のもとへ送ってくれました。早速見せていただきました。長年ふるさとを離れている者にとりまして殊更になつかしく各所に知った方々のお名前、一頁毎にお顔見知りの方々を見つけ感無量、しばし時の流れを忘れ、童心に帰りました。
その中で、撮影時不明の数枚ですが、あれは創立二十周年記念に撮られたもので、五枚目の左から二人目が私ですし、私のてもとにも中の二〜三枚があります。
最後のは「見えた、見えた トッラララ ラララー」と歌まで蘇って参ります。
ー中略ー
幼い頃に覚えた歌、歌詞がむずかしく所々片言で歌っていましたが不思議におぼろげながら意味はわかっていたように思います。
園舎の風景も運動場(おにわ)のすべり台、藤の花、南から西へかけての土堤に登って遊んだことも鮮明に思い出されます。
ー中略ー
思い出の記の中にもありましたが、あの頃は和服でおもらしの時に園の方で用意されていた着物の柄(絣、更紗)とかいたずらをする子は、先生のお部屋の「おあな」へ入れられるからと、恐れていたことも思い出します。
ー中略ー
この地(岐阜)に住み何時も知多の人々のおおらかさ明るさが何時もなつかしく思われますが、特に幼稚園と潮干祭に対する亀崎の方々の思いは格別のものがあると思います。「ヨーチン」と廻らぬ舌で言っていたことを思い出します中、女学校への進学率より入園生の方が多いのは地元の関心と情熱によるものと思います。昔の旦那衆(資産家)の地元への貢献の大きさと地元の方たちの協力で亀崎という独特の気風が育ったのではないでしょうか。
幼稚園からの親友で名古屋の空襲でアルバムも焼かれたので、修了写真は複写してあげましたが、ご兄姉も多く幼稚園にご縁があられましたので、記念誌を送ってあげました。
又、先日は丁度北浦の森久さんの八人目の方(名古屋在住)が来宅されましたので、記念誌を見せましたらお母さんが一回生、お子さん十三名中夭折の方と来宅された方(近くに通園生がないため)を除き、十一名が在園されたとか自身も付き添いで度々訪れているので懐かしいと写真の一枚一枚を食い入るようになつかしんで見て居られました。
幼い頃の思い出はやさしくあたたかく一生の宝だと思います。
大正十一年度の写真の中の「おかんぷろ(オカッパ)」が私ですが「おかっぱ」は、一人だけでした。面白いことにずっと前の方々には「おかっぱ」が多く、私達より二〜三年後から又多くなっていることに気づきました。
長々と思いつくまま、まとまらぬお粗末な文になり申し訳ございません。十三人のはらからも全部この世になく、喜びを話し合うことも出来なくなり残念です。
今後のご発展を心からお祈り申し上げます。
亀崎幼稚園御中
亀崎幼稚園の思い出
「80年のあゆみ」(80周年記念誌)の掲載文より
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おその先生とおくに先生
昭和6年度卒 都築医院院長 都築敏男
「幼稚園の思い出」といわれて、今改めて思い出そうとしてみても、それは今の私には、いつか見た夢の中の場面のようにしか浮かばない。不思議なことに、それは映画のようにではなく、人物も器物も風影も、断片的な動かない像としてしか現れない。4〜5才当時の、今からもう50年前の記憶として、それが私の記憶力の良し悪しを判断する材料として使われかねない様な「この思い出」だが、とにもかくにも書いてみることにする。
今、私のところには当時を思い起こす何ものもない。物もちのよいわが家のことだから、探せば何か出てくるかもしれないけれど。思い出は思い出として思いつくまま。
私たちの頃の幼稚園は、今の伊藤医院のところにあった。十数年前、中町の遊園地にぬける広い道ができることになって、古材がアパートの資材として払い下げられるまで、廃屋そのままに残っていたように思う。
「おその先生」「おくに先生」が私たちの先生だった。
「おその先生」は、少し腰を前かがみに、少しうつむきかげんに、そして少し頭を傾けて、両手はまっすぐに伸ばしたまま、長い袴のすそをけって歩く姿。近よりがたい、りっぱなオルガンで、プカブカ、ムスンテ゜ヒライテをひいている先生の姿……。私が開業してから、はじめて先生を往診した時、そのご容姿が久しくお会いしていなかったのに、昔の印象そのままで驚いたものだ。
「おくに先生」は、背の高い、スラッとスマートな、折目がきちんとついた袴をはいた、お姉さんのような先生。いつもきれいな八重歯を出して、ニコニコ手をたたいて、あとずさりしながら一緒に踊ってくれた先生。その「おくに先生」から「先生」と呼ばれて、一瞬、心の中で、どぎまぎしてしまったものだ。なつかしい「おくに先生」も今は亡き人となってしまった。
「お行儀の良い子から先に帰します」といわれて、いつも一番に帰された……とは、大きくなってから度々聞かされた母の話。着ていたものが洋服だったか、さっぱり思い出せないが、制服は白い前掛けだった。
園舎の西側は、高い石垣だった。不思議なことに幼稚園の思い出として一番鮮明なのは、その石垣に高くまで登っていた「ツタ」の葉の赤さだ。桜もあったのだけれど、又ブランコやスベリ台もあっただろうけれど印象はうすい。
もう一つ、弁当は茶筒を太くした様な円い弁当箱、上の段にはおさいを、下にはご飯を入れて、網か布地の袋で肩からかけ、走る度に前へきたり、後ろにまわったりして困ったものだ。今でもその特有な香りがなつかしく思い出される。
目にうかぶ「かりん」の美しい花と黄色い実
大正15年度卒 前園長補佐 竹内とみ子
昭和の始め頃、丸く大きく結い上げた「大ハイカラ」に、袴姿の2人の先生(糸数先生と間瀬そ乃先生)と、太った小使のおばさんにお世話になった私が、布張りのベンチ、シーソー型の木馬、そして、ままごと遊びでよく使った2階建すべり台など、幼い日の思い出が残る亀崎幼稚園に奉職したのは、昭和15年9月、紀元2600年の奉祝の年でした。70人程の園児の前に立ち、新任の挨拶をした時、明るく光る可愛い目が、緊張している私に一せいに注がれ、すっかり上気したことがこの頃のように思い出されて来ます。
月日は流れて40年過ぎました。振り返ってみると戦争・戦争・平和と変り、幼稚園では園児数増加のため、小中学校の教室を借用して分園生活が続き、新園舎へ移転するなど、実に多事多難な時代であったと思います。
旧園舎はどぶを渡り、黒の板塀に囲まれた門を入ると、玄関前の左に、こどもたちの言う「おばけの木」ぎょうりゅう、まつ、やつで、右にもくせい、くちなしなどが茂り、園舎南の園庭には、ふじ、いちょう、つうてんもみじなどの大木が枝を伸ばし、緑の多い遊びの庭でした。ふじ棚が3つ、中でも保育室前のふじは、4月下旬には60センチもある見事な房をつけ、その甘い香りに蜜蜂が集まり、花の間を飛び回っていました。棚の下の舟型シーソーは、いつもこどもたちで満員、頭が花に届くように動かしたものでした。
湯沸場の入口近くに、この地方では珍しいかりんが1本、晩春にはうす紅色の可憐な花を見せ、秋にはみかん大の黄色い実が沢山つきました。こどもたちは、「うまそうだな、食べたいな」と言います。固い実を輪切りにすると、りんごのようで、おいしそうなにおいがします。かじったら大変、強い渋味が舌をさし、口の中がしびれるようで、泣きべそをかく子もいましたが、中には「うまいな、もうひとつくれや」と言う変わり者もいました。その実から出た苗木は、順調に育ち、現在の職員室前の花壇で今年も沢山の実をつけています。
忘れられない思い出に、地震の日のことが浮かんで来ます。それは昭和19年12月7日でした。当時は食糧難が続き弁当が持てなくて昼食を食べに帰る子が多く、この日も約半数は帰り、40数名が芋を沢山炊き込んだご飯や、さつま芋の粉の入った自家製のパンで昼食をすまし、遊んでいる時に地震発生です。園舎はギチギチと音をたてて大きく揺れる、こどもたちは泣き出し大騒ぎです。園庭への出入口がない西保育室から出ることは大変で、窓から飛び出す子、こわがって先生にまつわりつく子たちを、園庭中央まで避難させたのです。最後に私が出る頃は、掲示されていた卒業写真がバタン、バタン。戸棚が倒れ、物が落ちる。園庭に出たこどもたちは、2人の先生(長谷川・冨安先生)と、小使のおばさん(よねさん)に囲まれて、「先生危ない、早く早く」と呼んでいる声に励まされながら、はうようにして外に出ました。振動が止み、暫くして「みんなどうしとるなー、怪我はなかったかなー」と叫びながら走り込んで来て下さったのは、通園グループ代表の竹内栄吉さんと村瀬貞一さんでした。「よかった、よかった、町はひどくやられたんな」何だか急に涙が出て来ました。出迎えの方にこどもたちを渡し終えて、散乱した保育室の中で茫然としてしいると、「家の子はどこだ、まだ帰っとらんぞ」とN君のお爺さんのきびしい顔。もう誰も居ない。しかし気になったのは便所の壁が倒れていることでした。「N君、N君」と呼びながら壁土を掘り起こしたが居ない。その後N君は、みんなと反対に門を出て、通れる道をひとりで家に帰ったことを知らされ胸をなでおろしましたが、万一の事態を想定した時、背筋の寒くなる思いがしました。この頃のこどもたちの服装は、防空頭巾を一日中肩にかけ、もんぺに下履き、エプロンには住所・氏名・保護者名を記入した迷子札とハンカチをつけ、小さな袋をさげていました。この袋には下駄の前鼻緒をすげる材料を入れていました。鼻緒はよく切れるので、保育中でもたびたび取り替えたものですが、今ではとても想像できないことです。
多くの人の数知れぬ思い出の園舎も、寄る年波には勝てず、老朽が目立つようになった上に、園児数増加で保育室が不足してきたので、33年9月には旧平井病院の跡地に、待望の園舎が完成しました。開園以来の園舎を残して、10月には新園舎に移り、小学校舎の分園組も合流し、新園舎で保育できるようになった事は、最高の喜びでした。ふじに代り、すばらしいさくらの庭、広い園庭は運動会もできます。木々の間を元気に走りまわるこどもたちの姿は、喜びそのものでした。先年、大垣市で開かれた東海北陸地区幼稚園教育研究協議会の席で、職員手製の8ミリ映画で、こどもの姿とともに園庭の様子を紹介しました。参会者から「素晴らしいね」と拍手を贈られ、誇らしい思いを致しました。
34年4月から15年間、乙川幼稚園で勤務致しましたが、49年4月から退職までの4年間を、再び亀崎幼稚園で勤務させて頂くことができ、身に余る感激の日々を送る事ができました。
49年の夏、亀崎消防団の方が、奉仕作業で、雨の日のために通路をと、材料のすべてを持参されて、園舎前に2メートル巾のコンクリート歩道を設けて下さいました。
また53年3月には、五龍会の方が、こどもたちの遊び場「五龍山」をご寄贈頂きました。南園庭に富士山のような斜面で、こどもの体力と創造力の向上に役立つよう設計され、基礎工事から完成まですべて会員の作業で築き上げられたのです。
団員・会員の大半が幼稚園出身の方々で、作業中にも幼稚園時代の思い出話が続き、楽しそうでした。こうしたこどもたちの幸せな成長を願ってのご厚意は、心から嬉しく感謝致しています。特に五龍山は、私の退職の年にご寄贈下さいましたので、格別の思いが致します。こうして地元の方の温かいまごころに支えられ、守られている亀崎幼稚園、歴史と伝統に輝く亀崎幼稚園の発展を心から祈念いたします。
80年前がなつかしく、ほのぼのと
明治36年度卒 中部工大名誉教授 竹内芳太郎
黒い板べいと門、門を入った車寄せの植え込み、そんな姿が後々まで残っていただけに、幼稚園というとすぐにそれが思い出され、なつかしさもひとしおです。
何しろ80年の昔を追憶するとなると、ほとんどぼやけてしまって、先生の顔も思い出せないし友達も忘れてしまいました。
当時、私の家は相生町通りの西側にあったので、すぐ裏が幼稚園でした。何歳からともなく遊びに行くような気で、気安く通ったように思いますが、あまり気の強い性格ではなかったので、よく友だちにいじめられました。そんな時は、運動場の東側の垣根から母を呼ぶのでした。
「泣いちゃいかんぜ。おっかさんが見とってやるぜ。おとなしく先生のいうことを聞いて、帰ってから教えてくれ」、いつも母はそういって励ましてくれました。そうすると勇気が出て、運動場のカリン、桐の木のかげにあったブランコの方へ飛んでいって、それに乗ったりしたことを覚えています。
家に帰って友だちと遊んでいると、ガキ大将がきて「幼稚園坊主と遊ぶな」といって、友だちを連れて行ってしまうのです。そのくらい当時はまだ幼稚園へ行く子は、特殊扱いされていて、私はそう言われるのが何よりいやでした。幼稚園など行くのはやめて、町の子たちと遊びたかったので、父にそれを言ったことがありました。
父は当時亀崎銀行に勤めていましたが、もと学校の教師でしたので、銀電の二階にあった○○義塾の夜学の教師もしており、教育に熱心でしたから「偉くなるにはつらくても幼稚園へ行かなければいけないよ」と言って、私の願いを聞いてくれませんでした。
こう書いてみると、80年前がやはりなつかしくて、ほのぼの思い出がよみがえってきます。
積み木でおもいきり遊びたかった
大正11年度卒 教育委員 間瀬 良一
60年前、私は望洲楼の西の紀伊国屋本店の家から、着物の上に白いエプロンを掛けて、円筒形の弁当箱を肩にして、伊東病院のところにあった幼稚園に通った。「幼稚園坊主何習う、弁当箱たたいて箸習う」と言って、小学校のわんぱく少年が、歌のような節をつけてからかってきたのがおぞましかった。
当時の道は狭かった。上町と下町とがあって、上町は現在もそのまま残っているが、下町は巾が2m程もあったであろうか。淋しい道がほとんど一直線に西へ伸びて上町に合流していた。(現在の本通りは、この下町が南側を拡張して広い道となったものです。)上町は繁華街で、秋葉山があり一年に一度お祭りがあって福引きがあり、小枝にたんざくや、丸い桜色の玉をつるした景品が美しく、華やかでうらやましかった。米屋、八百屋、魚屋、炭屋、金物屋、風呂屋、菓子屋、薬屋、おもちゃ屋、餅屋等々が軒をつらねてにぎやかであった。「上町を通りなさいよ。下町は子を取りが出るといけないから……」と、よく母に言い含められた気がする。
相生町は砂ぼこりの立った広い通りだった。鉄工所、石屋、仏だん屋、菓子屋、医者、芝居小屋、木綿問屋があった。饅頭の湯気の中で育った私は、まんじゅうが甘すぎて好きでなかった。私はこの相生通の菓子屋で一銭で2個のドロップ飴を買うのが好きだった。その甘く酸っぱい味が今も忘れられない。
幼稚園には、二人の先生がおられ、いくつも歌を習い、遊戯をして遊んだ。そして四角の小箱に納められた積み木があって、おもいきり積み木で遊びたかったが、なかなか順番が回ってこなかったのが心残りであったことを思い出す。